1989年から19年にわたり、ニューヨークで生活してきました。そこで私は、個性と言う名の西洋にない表現や文化背景を問われ続けてきました。
そして、自分のアイデンティティ、日本人について考えるようになりました。
「自分とは何か?」という問いの中に、常に「日本って何だ?」「日本人としての自分とは?」と自問する日々。
Photographerとして、そしてひとりのNIPPON-JINとして、一生のうち、1億2000万人の中の何人と関わり合えるのだろうか。
家族、友達、知り合い、仕事関係者など、縁が出来たり、出会ったり、通り過ぎたり…。
ニューヨークにいる友人や日本に興味のある方に、「今」の日本人を説明しようとしたことは何度もあります。
しかし、自分自身がよく分かっていないことを、文化背景の違う人に説明などできるはずもありません。
A picture is worth a thousand words.
一枚の写真は千の言葉の価値がある。
Seeing is believing.
百聞は一見にしかず。
説明が出来ないのであれば、撮って、集めて、見てもらおう。説明するのではなく、沢山の日本人の写真から感じてもらおうと日本人を撮り始めました。
自分の価値観を主張、表現するのではなく、資料の様に、情報の様に見て貰って、感じて貰うと言う新しい表現を目指しました。
アンディー・ウォーホルが、こんな言葉を残しています。
In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes.
誰もが15分間は有名になれる。
この写真群は、彼らの写真です。
写真家が介入して「良い写真」を撮るのではなく、被写体自らが勝手に動いて、自己表現してもらい、私はただシャッターを切っていくという作業で、「彼らの写真」を集めていきます。衣装は勿論皆さんの私物です。
様々な日本人の姿を見ていると、沢山の説明よりも、自然と見えてくるものがないでしょうか?
この写真群と向かった時に、今の日本人の存在と現在だけでなく、日本人の個性、多様性、可能性を感じて貰えたら嬉しいです。
2007年よりライフワーク的に日本人を撮り続けてきました。そしてこれからも続けていくつもりです。撮ることで「日本人」を発見し、人生の「縁」が出来て、「表現の可能性」も学んでいます。
そして10000人を目指して継続していくつもりです。人数が多ければ多い程、日本人として本当の意味で平均値化されると思っているからです。
2011年3月11日、私たちの国で大震災が起きました。まだそれについて語るには私には言葉が足りません。しかし、あの前と後とでは、意識も感覚もまったく違っているというのは感じています。
我慢強く、粘り強く、謙虚で控えめな、ニューヨークに行く前の私がとても好きになれなかった日本の精神性が、今輝いて見えます。
そして自分もひとりの日本人であることを、とても誇りに思っています。
NIPPON-JIN project800人の中に、40人程の東日本大震災の被災者の方がいらっしゃいます。震災前から被災後に縁があった方々です。
私にはあの現実を経験した方々の恐怖や気持ちを知ることは出来ません。ただ、たまたま被災しなかったひとりの日本人(当事者)として、必死に考え、想像する。そしてこれからも彼らと関わっていきたいと思っています。小さな小さな個人ですけど、微力は無力ではないと信じて。
Photographer たかはしじゅんいち
撮影場所:東京、ニューヨーク、名古屋、新潟、石巻(宮城)、久慈市(岩手)、八幡平市(岩手)
ヘアーメイク:岡田知子、得字マキ、MAMI、Miyu Asakawa,
グラフィックデザイン: 大久保 忠明(プリント)、井上新八(本)
I have been working as a photographer in New York since 1989.
Over the course of these nineteen years I have continued to question the personalities, expressions and cultural backgrounds that do not exist in the West. It has also made me examine my own identity as a Japanese national. Asking myself about the true nature of who I am always leads to me wonder what exactly Japan is. The act of leaving Japan is really what made me contemplate this.
As a photographer focused on shooting people, and as a Japanese, I wonder how many people out of the 120 million I will get to meet in my life. Paths cross through family, friends, acquaintances and work colleagues, there are lucky meetings and missed encounters.
What has stuck me since coming here is that there must be a subtle difference between Japanese as seen by the rest of the world and Japanese as seen by Japanese in Japan.
I have attempted on many occasions to explain just who the Japanese of
-now- are to my friends in New York but predictably it is beyond me to explain something that I don’t even understand myself to people of different cultural background.
If I can’t explain it, I’ll shoot it, bring it together, and have them look at it. I started shooting Japanese people so that, rather than be explained to, people could draw their own conclusions from lots of samples of Japanese people.
When looking at variety of Japanese people, is there not something that is naturally recognizable, without the need for lengthy explanations? It would delight me if, when looking at the collection of photographs, the viewer can go beyond the existences and current state of Japanese people today and instead sense their personalities, diversity and potensial.